昭和42年03月28日 朝の御理解



 信心を頂いて、御教えを頂き、だんだんそのことが自分のものになってくると、どのような場合にはどうあらなければならない。このような時には、あああるべきだと言うように、はっきりした答えが出てくるようになってくるまでは、どのような場合でも、そこにはっきり間違いのない答えを出して行きながら、生活をしていくということが安心の生活を得られる元になるのであり。
 それがおかげを頂く元になるのでございますから。どのような場合でも、日ごろ頂いている御教えを、よく頂いて、こういう時には、こう言うべきだ、こう行うべきだという、その答えを出していくこと。そしてその答えをそのままに行じていくところの、そういう生き方こそが、信心生活だと思うんですね。信心しよってから、こげなこと言いよる。本当にこうすることが、本当だけれども。
 こげなこと行いよると。例えば自分の心にそうしたひっかかりがあるような生き方をしておるところにです。呵責の念とでも申しましょうか。自分を自分で責める。用心せよ心の鬼が我が身を責めるぞと仰るような、自分で自分の心から責めさいなまれるような結果になってくる。これではやはりおかげは受けられんのでございます。ですから本当にやはり、限りなく美しゅうならして頂こうと言ったような信心が。
 常にそのことに精進させて頂かなければならない。その精神がお道の信心でいう修行であると私は思うのです。ところがここに一つその分かっていると、分かっているけども分からないことがある。右にしてよいやら左にしてよいやら。昨夜もですもう皆さん帰られたあと、合楽の方達がこの頃お参りがあります。夕べも二三人の方達がお参りしてみえて、本当に不思議なところだと。
 ここでこうやってお話を頂いておるとひとっつもその帰りたくない。もう私が下がってからで御座いますから、お広前でこうやってお話を頂いとると何かその帰りたくなかごとなりますという話をしてる。所があなた方だけではない皆さんがそうなんですよと。本当言うたら椛目に見えてもうけそけそしてから、まあだ御祈念がすまん早う御理解が済めばよかばってんというごたる事ではやはりおかげを頂かれんのですよ。
 何かしらんけどもここには、引き付ける様なもの動きたくないようなもの、そういう様なものが確かにここの御広前にはあるんですよ。皆さんもやっぱりそんなわけではないでしょうかねと言うて話したことですけれども。皆さん帰られたのがもうやんがて、十二時、回ったんじゃなかったでしょうか。で久富先生昨日こっちへ泊まっておりましたから、東脇殿の障子のところで、これは大体閉めておくのが本当でしょうか、開けておくのが本当でしょうかと言う訳なんですね。
 たったその位のことでもです迷うのです。さぁこらどっち先生こりゃ、やっぱ閉めとくがほんなこつじゃろうのと、私は言うたもんのまたこう通ってみたところが、やっぱ明くる朝は、皆が言うなら慌ててみえるのですから、やっぱ開けるとだけでも省いといて、開けておくのが本当じゃろうと言うて、また開けたりしたのですけれども。そのことでもです。どうすることが本当じゃろうかと言う様な事が。
 ちょっとした事の中にでも、迷うことがございましょうが。右にして良いやら左にして良いやら分からんことがある。いわゆる、こう言う様な大事な事と言うか、難しいことにははっきりとした確信をもって、日頃頂いておる御教えをそこの上に表していけれるだけのものをもっておってもです。たった些細なそのような事でも一日のうちにどれだけあるか分かりません。
 右にしてよいか左にしてよいか、いやどちらが本当かと言った様な事が御座いますから。それをお知らせを頂いてお取次ぎ頂いて右、左決めていきゃいいのですけども、そんな訳には参りません。ですからやはりその自分の心の上にお取次ぎを頂くんですね。金光様これは右にしたが左にしたが本当でございましょうかと、言う様にお伺いさせて頂いてから、祈って願ってそれを右にし左に決めて行くという生き方。
 今日はそこんところ、皆さん、一つ一日の中に行じてご覧になったらどうだろうかとこう思うのです。そしてお取次ぎを頂いてからのこと。神様にお縋りをしてからのこと。なるほどまあだはっきりした答えは出てる訳じゃないけれども、お縋りをして右にした。お縋りをして左にしたのだから、例え答えがどうであろうとです、そこはもう神様の分域であり私共の分域ではない。
 そこにそれがおかげであると確信出来れるおかげを頂いていきたいと、こう思うです。ですから問題はそこのところにですね、純粋なものがなからなければいけません。ある時に確かに四神様の、二代金光様ご時代だったでしょうか。氏子がある先生がですね、いろんなお伺いことがある。そういう時には、金光様どういうふうに返事したが良いだろうかと言うて、先生がお尋ねになったことがございます。
 そしたら四神様が、自分が思うた通りを返事をしてやれと仰ったそうです。神様からいちいち御神意を頂ける訳じゃない。いちいち神様がお知らせを下さらなかった時にはです。自分が思うたように言うてやれ、後は神がそれに合わせてやろうと、こう仰ったそうです。先生右にしたがよいでしょうか、左にしたがよいでしょうかと。さぁなどっちにしたがほんなごつじゃろうかと。と、
 先生まで迷うとったっちゃいけませんもん。そこでそら右が本当ばい。左が本当ばと言うことを教えてやっても、神様から確としたご返事を頂いてる訳じゃなくてもです。取次ぎの先生がです、いわゆる金光大神が右だ左だと仰って下さったんだと、確信させてもらっていけば、神がそれに合わせてやると仰った。そこに取次ぎ者に対するところのこれは、一つの権威と言ったようなものを、お与えになるのでしょうけれどもです。
 同時に私はこれががですね。取次ぐ私なら私がその自分の我情、自分の心の中に純粋なものなくしては、神様はそうはおかげを下さらないと私は思いますね。私の心の中に何にもない純粋なもの。ただ氏子が助かりさえすればと言ったような神心をもって、右だ左だと言うたところに始めて私は、神様がそれに合わせて下さるようなおかげを受けられるんだと。これは取次ぎ者に対して下さった御教えでございますけれども。
 銘々の上にもそのことが言えるのじゃなかろうかと。これは右にしたがいいだろうか、左にしたが良いだろうかと、いうその時の心なんだ。その心の時をです右とか左とかそこはもう、あなたの世界なんだと。神様の世界なんだと。そして右に決め左に決めることがです自分の我情とか、我欲でなくて。純粋な何もないと言った様なもので、右に決め、左に決めして行くならば。
 神様が右と決めた所には、右の上に必ずお働きを下さる事である事をです。私はいつも自分の体験から、それを申し上げることが出来ます。そんなことがございましょうが、皆さん、日々の中に。ですから、そういう時には、いよいよ純粋な心でです、右左をお決めになっていけば、神様が右と決めれば右に、左と決めれば左の方が、なるほど、おかげであったというおかげをです、下さることが出来ると思うですね。
   どうぞ。